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2019-05-05ネスレはネスカフェを知らなかった

ミュシャとネスレ

 妖艶なお母さんが何か食品を混ぜていて、側にはNESTLÉ'S MILK FOODの缶。
画面の上にはNESTLÉ'S FOOD、下にFOR INFANTS(子供用)。

 これはネスレが開発して発売し、すでに国際的な成功をおさめていた粉ミルクのコマーシャル。アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)の、1897年の作品だそうです。

 よく見ると、重層的に装飾を施しているようにみえながら、テーマに不必要な物(ネスレのミルクの缶が置かれるはずのテーブル)を描かず、絵の枠線を利用して、布をかぶせるなど、素人目にも分かりやすい工夫がみえます。そうして(比較的)単純化された画面の下半分では、子供の金髪とミルクの缶が同系色で無理なく強調されて、関連づけられています

ミュシャのブレイク

 1894年の12月26日、当時の大女優サラ・ベルナール(1844-1924)の、新しい舞台「ジスモンダ」のためのポスターが急遽必要になった。しかし、年末のためベテランの画家達は休暇中で、まだ無名で印刷所に勤めていたミュシャに仕事が回ってきた。ミュシャはクリスマス休暇の友人の代わりに勤務していたという。ミュシャはその夜、「ジスモンダ」の観劇に出掛けた。

ミュシャ 1897年頃
ミュシャ
1897年頃

 12月31日、注文に応えてミュシャが描き、急ピッチで印刷された「ジスモンダ」のポスターは出色の出来映えで、感激したサラ・ベルナールはミュシャと6年間の専属契約。翌年初頭からミュシャは時代の寵児として、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍が始まるのでした。

 NESTLÉのコマーシャルはその2年後のもので、伸び盛りの大企業が、当時一番の売れっ子作家に依頼したものでしょう。ミュシャの熱い時代の作品といえます。

 右上の似顔絵は、NESTLÉのポスターの頃のミュシャで、仕事仲間の画家の作品(Wikipediaフランスより)

 それにしても「ジスモンダ」は12月の26日に注文を受けて、イラストレーター(ミュシャ)、彫り師、刷り師を経て31日に完了だそうですから、凄腕の職人たちが揃っていたのですね。

起業家ネスレの粉ミルク

アンリ・ネスレ
ネスレ

 「ネスレはネスカフェを知らなかった」とは、いかにもキャッチーな意図が丸見えのタイトルですが、ネスレは19世紀後半に、粉ミルク製造会社として出発しました。インスタントコーヒーが始まったのは第二次世界大戦の需要に応えてのことだったそうです。

 創業者アンリ・ネスレ(1814-1890)は、薬剤師助手の経験を持つ起業家で、若い頃から様々な事業を手がけていました。

粉ミルクもその一つですが、最初はうまく行かなかったようです。1860年46才で結婚後、家族の助けもあって再び粉ミルクに取り組み、65年に完成品を作り、68年に売りだしたとあります(ドイツ語版Wikipedia・自動翻訳)。ネスレ53才でした。

1868年の
商標

創業者ネスレは 7年で引退

 生まれた子供の4人に1人は1才までに亡くなってしまうという状況の中で、粉ミルクはすぐに社会に歓迎され、大きな利益を生みましたが、ネスレは75年、61才の時には早くも会社を100万フランで売却して、彼自身は撤退しました。その年の純利益は40万フランだったそうです。

100万フラン、40万フランがどれほどの金額か、想像が及びませんが、フランスの印象派の画家アルマン・ギヨマンは絵が売れず、別の仕事と画業の二足のわらじでしたが、1891年50才の時に合計60万フランの宝くじに当たり、以後仕事を辞めて画業に専念したということです。単純に比較してよければ、年間40万フランの純利益はすごい金額です。

 アンリ・ネスレは1890年没。上記のミュシャのポスターの時にはすでに亡くなっていました。

チェコ・プラハのミュシャ美術館 展示品と説明(翻訳ソフトがあれば吉)

Henri Nestlé: the man behind the global enterprise スイスの記事(英語)、興味深い写真がいくつかあります。 この記事によると、1868年には8600本、 1874年には67万本が生産されたとあります。