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2019-10-26扁炉(ぴぇんろーなべ) その4

藤原義江と言えば

女心の歌
藤原義江

昭和の戦前から「吾らのテナー」として知られた、テナー歌手藤原義江氏は、今やSP時代の音源でしか聴くことは出来ませんが、かうひい屋も含めて年配の方は(名前は)よく知っている存在でした。

そこで、扁炉の話をする時、年配の方なら「あのテノールの藤原義江も大好きだったらしい」と話題を出しました。

すると、50代の方が「藤原義江と言えば……、」と思い出話をしてくれました。

「子供のころ広島市に住んでいて、父が東海道線で出張に行った時、体躯のいい、大きな荷物を持った老紳士が列車に乗ろうとしていたので、父が荷物を持って手伝い、同じ座席に座って、楽しく話ながら行った。その人が藤原義江だった。

「後日、『ソプラノの弟子がそちらでリサイタルをするので行ってやってくれ』と、コンサートの券を2枚送ってくれて、両親は生まれて初めて、オペラのコンサートに行った」

遠い世界の人が、俄然身近に感じられた話でした。

リゴレット

「河童のスケッチブック」には面白く楽しい話がたくさんありますが、中には切ない話もあります。少年時代の戦争体験からいくつかが語られています。

女心の歌
藤原義江 「女心の歌」
youtube

昭和14年、小学校3年の妹尾少年が「うどん屋の兄ちゃん」の部屋で、初めてのコーヒーを飲んでみる。
「飲ましたるけど、内緒やど、どや、おいしいか」
「苦いのに慣れたら好きになると思う」

兄ちゃんは藤原義江というオペラ歌手のレコードを聴かせてくれた。
「風の中の羽根のように……」 オペラ「リゴレット」の「女心の唄」とも知らず、印象に残ったのは藤原義江という女のような名前の歌手だったことだ。

兄ちゃんは色々な本を部屋に持っていて、不思議に思っていた。大人達は「あの人はアカだから気をつけよう」などと話していたのは聞こえていた。

ある夜、激しい笛の音と「あっちだ、逃げたぞ!」と、何かを追う音が聞こえた。二階の窓から覗くと、向かいの屋根に人影が見えた。兄ちゃんだ、僕には分かった。

…………

この2年後に戦争が始まり、5年後、妹尾氏宅が空襲で全焼した5ヶ月後に終戦となりました。

戦後、妹尾氏は関西で、レコードの歌声の主藤原義江氏に見いだされ、東京に出て活躍を始めます。

妹尾氏は後年の対談で「記憶の中で今もきらめく曲」として、「女ごころの唄」(藤原義江)を挙げました。藤原義江という名前から最初はこの歌手を女性だと思っていたが、レコードから出てきたのは男の声でびっくりした事、少年時代には大人の歌である事が分からずに大声で歌って怒られたりしていた事を語ったということです。